イマジナリーフレンド・HSP回顧録

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私には、物心ついたころから30歳を過ぎた現在まで、イマジナリーフレンドがいます。
「大人になってもイマジナリーフレンドがいる人もいる」「イマジナリーフレンドがいることは病気ではない、感受性が豊かなだけ」というのが私の持論です。

今回は、私がイマジナリーフレンドとどう付き合ってきたのかを、回顧録として残しておこうと思います。
イマジナリーフレンドがいる人間の一例として、また、今イマジナリーフレンドとの付き合い方に困っている方の、何かしらの参考になれば幸いです。

目次

1.幼児期
2.小学生
  *小学生のときに出会ったイマジナリーフレンド
3.中学生
4.高校生
  *「イマジナリーフレンドがいる人」との出会い
5.大学生
  *東日本大震災を経て
6.社会人:20代
7.社会人:30代(現在)
8.おわりに

幼児期


物心ついた頃ということで、はっきりした記憶ではないことはご承知おきください。笑

育ちは一般的な家庭。父がいて母がいて、きょうだいが一人。
車で往復できる距離に親戚も住んでいて、よく遊びに行きました。

創作などで見かける「虐待があって解離性同一性障害で…」という環境ではまったくなく、ただ感受性が強く妄想癖の強い子どもだったのだと思います。

幼児期は、特定のイマジナリーフレンドというより、よくある「お人形を使ったおままごと遊び」を普通にしていた記憶があります。

ただ、ホームビデオとして残っている映像がありまして。自分の記憶にはまったく残っていないのですが。
私は自分が何かしら特殊な環境で育っているんだ…と妄想して「お空にいるお父さんとお母さんも、今の元気な私を見てよろこんでいるんだろう」というような内容の歌詞のオリジナル曲を元気に歌っているホームビデオ。
そのビデオを撮っているのは実の親だというのに。笑

そんなこんなで、妄想力は人一倍強い子どもでした。
この妄想力が大人になるまで衰えないとはつゆ知らず…。笑

小学生


まだ「イマジナリーフレンド」という概念や単語は知らなかった時代。
外で遊ぶのも部屋の中で遊ぶのもどちらも好きな小学生でした。

寝ても寝ても眠い体質で(今もロングスリーパーですし)、眠りが浅いのか、毎日夢を見ました。
朝起きたときも夢の内容を覚えているし、夢の中の感覚が自分の中に残っているような感じがして、朝起きた時すでに疲れてることもしばしば。
学校に行くときに友達と待ち合わせして登校していたのですが、いつも「今朝私が見た夢の話」を話しながら歩いてました。
(友達もよくこんなどうでもいい夢の話に付き合ってくれてたな…。笑)

夢の余韻が体に残っているのと同じように、本を読んだりビデオを見たりした後、自分もその架空の世界の一部分になっているような感覚がよくありました。
あとは、テレビで手術のシーンだったり、映画で誰かが怪我をするシーンで、私の体の同じ部分がすっごく違和感を持ったり。
当時はよくわからなかったんですが、今思えばHSPそのものでしたね。

少し話はズレますが、私、「もらいゲロ」をしやすい体質なのです。
これもHSPの体質なのかなあ…と最近思うようになりました。
具合が悪い人を見ると、つらそうだなぁ看病してあげたいなぁと思う一方で、私自身も具合が悪くなってしまうので、申し訳なさを抱えながら自分が落ち着ける場所に避難するしかないという…。
もらいゲロをしやすいし、手術のシーンとかも見られない(見たら具合が悪くなる)ので、世の中のお医者さんや看護師さんはすごいなぁと思います。

小学校中学年くらいから漫画を読むようになり、自分でもお話を書いたりイラストを描いたり漫画を描いたりするようになりました。
その中で「キャラクターを作り上げる」作業にハマるようになり、当時の創作キャラクターたちがイマジナリーフレンドになっていきました。

また、小学校高学年くらいからは、作詞・作曲・編曲をするようになりました。
文章・イラスト・漫画とは別に「音楽」という手段で何かを作る、ということが出来るようになり、自分のアウトプットの幅が少しずつ広がっていきました。

小学生のときに出会ったイマジナリーフレンド


前述したように、自分で物語を作り、キャラクターを作り上げるようになってから、だんだん「自分の頭の中でキャラクターと話す」ことをするようになりました。

当時、新しいお話を作るときは、
・どんなストーリーにするか
・主人公はどんな子か
・周りの登場人物はどんな子か
を決めてから書き出したのですが、そのキャラクター設定が異様に楽しくて、

キャラクターの外見、年齢、誕生日、血液型、好きなもの、嫌いなもの、周りの登場人物との関係性、ベースになる洋服と休日の洋服の好み、etc…

めちゃくちゃ作りこんでから物語を作っていったんですね。
その作りこみも、キャラクターへのインタビュー形式というか。

私「お名前は?」
キャラ「カノンです」
私「カノンちゃん!好きなものは?」
カノン「オルゴール集め」

というふうに。
そうすると、キャラクターが一人歩きするというか、どんどん妄想が膨らむので、私は何も作らずにただ思い浮かんだものを文章やイラストに変換するだけ。

こうして、創作キャラクターが増えていき、主人公が増えると同時に周りのキャラクターも増えていき…、と、だんだんと頭の中でキャラクターと喋ることも多くなり
物語をいくつか作っていくうちに、今でも一番よくお話しをするイマジナリーフレンドの「あーちゃん」と出会いました。

あーちゃんは、最初こそただの創作キャラクターでしたが、物語を書き進めるうちに「あーちゃんならこの場面でどう思う?」「あーちゃんならこんなとき何をする?」と、キャラクターの内面に深く深く潜っていくようになり、時間があればあーちゃんと頭の中で話すようになり。

ただ、こうして「頭の中でキャラクターとやりとりしている」のを公言するのはなんとなくはばかられたので、そうやって物語を作っているとは周りの人には話しませんでした。
どこで身に付いたのかわかりませんが、「こういうことを話すと変な目で見られるだろう」という思いがあったのだと思います。

中学生


中学生になっても、イマジナリーフレンドという単語には出会いませんでした。
ただ、自分が頭の中でやっていることは病気なんじゃないか…?という不安はどんどん大きくなっていきました。

生来の感性の豊かさ(HSP気質)と妄想力の強さに加え、思春期で感受性が暴走するお年頃に突入し、あーちゃんとのやりとりも暴走していきました。
あーちゃんが、あーちゃんの世界で、好き勝手動くようになっていったのです。
「これをどう物語として落とし込めと!?」と思っていました。

幸いだったのが、どうにかこうにか、なにかしらのアウトプットの方法を身につけていたことでした。

イラストを描くこと、文章で書き出すこと、あとはピアノを弾いたり曲を作ったりすることで、自分の中のゲボ吐きそうなドロドロを出していました。
どうしようもない苛立ちだとか、芽生え始めた反抗心だとか、なんで自分の頭の中ではキャラクターがこんなに生き生きと動いてるんだろうという不安感とか。

ありがたいことに周りにはクリエイティブな友達が多く、描いたイラストの交換や手紙の交換がとても楽しかったのを覚えています。
私がピアノを弾くのを楽しみにしてくれて、曲のリクエストをしてくれる友達がいたり。
絵がうまい子が数人いたので、私が書いた物語のあらすじを読んでもらってイラストにしてもらったり。
その子たちからも、あーちゃんというキャラクターは知られていましたが、私の物語の中のキャラクターという範囲なだけで、頭の中でずっとおしゃべりをしている存在だとは言えませんでした。

さて、この年代にはあるあるで、私もいわゆる「中二病」にかかりました。笑
というか成人した今でも尾を引いています。厄介な病です。
オタクになり、ヴィジュアル系にハマりという、なかなかに王道まっしぐらな中二病コースです。ふふふ。

高校生


いよいよ感受性が暴走し、高校1年生のときに不登校になりました。
不登校といっても、通い始めた高校が嫌になったので学校には行かず、習い事や友達と遊んだりは毎日のようにしてました。不真面目。笑
あと、学校行かなくなってから、一度眉毛を全部剃りました。ヴィジュアル系の人たち眉毛ない人多いから!憧れだったんですよ!笑

翌年に転校し、もう一度高校1年生をやり直しました。実家を離れて寮に入り、音楽の勉強ができる高校に行きました。

とはいえ思春期の感性はおさまらず、あーちゃんとのおしゃべりが止まらなかったり、たまにあーちゃんと喧嘩をしたりしました。
自分で言っててもクエスチョンマークが飛び交いますが、イマジナリーフレンドと喧嘩ってできるんだ…?って、変な感じです。
一番大きい喧嘩は、私が好きなフライドポテトをあーちゃんがいっぱい食べたことでした。
ほんとに意味わかんないですね。
イマジナリーフレンドは実態がないからポテト減るわけないのにね、でも思考回路が暴走してるから「あーちゃんが私のポテトとった!!!最悪!!!絶交!!!」って本気で思うんです。びっくり。自分でもびっくり。

イマジナリーフレンドという単語にはまだ出会ってなかったのですが、「頭の中の友達」という概念は大まかにつかんでいて、もしこれが本当に病気なら病院に行かなくちゃいけないのかなぁ…という思いはありました。


高校時代は、ひたすら音楽でアウトプットしていました。
イマジナリーフレンドのことを歌詞にしたり、「CDを作ったらこういうジャケットにしよう!」って妄想してイラストを描いたり。
あとは、感受性の暴走でイマジナリーフレンドが増えまして、歌を歌う子、ギターを弾く子、ベースを弾く子、ドラムを叩く子、ピアノを弾く子、ヴァイオリンを弾く子と話すようになりました。
(もちろん、それぞれ名前も人物像もバッチリ仕上がってます。)
その子たちがこの曲をアレンジしたらどう仕上がるだろう!と妄想してはデモ音源を作りまくっていました。
今発表している音源の中には、このイマジナリーフレンドとのやりとりの中で作り上げたものも多くあります。

スクールカウンセラーの先生が言ってくれた、【感性を音楽で昇華している】という言葉。
先生は私がどうやって学校で過ごしていたのかを見ていてくれてたんだなぁ、と、今振り返ると有難い限りですね。

高校時代のスクールカウンセラーと、社会人になって精神科医に相談した話はこちら

「イマジナリーフレンドがいる人」との出会い


高校生のときに、イマジナリーフレンドのことで人生観が変わったできごとは、上記にある「スクールカウンセラーの先生とのやりとり」と、もうひとつは「イマジナリーフレンドがいる人に会えた」ことでした。

当時、まだあまり話したことはないけれど、とても気になる存在の同級生がいて。
帰りの電車が同じ方向だったので、何回か一緒に帰ったことがありました。
ぽつりぽつりと話すうちに、その子にも「頭の中に友達がいる」ことを知り。
ひゃああああ同じ人がいたーーー!!!と感動して、「私も!!!」って言いながらその子の肩をバシバシ叩いてしまったのを覚えています。
叩かなくてもいいのにね…悪いことをしてしまった…。

その子がどういう環境で生きてきて「頭の中の友達」がいる状況だったのか、詳しいことはまったくわかりません。
今、その子に当時のことを聞いてみたら、私がかかえているイマジナリーフレンドとは、もしかすると違う感覚だったのかもしれません。
高校を卒業してからは滅多に連絡をとらなくなってしまったので、当時のことをその子が覚えているのか、もうイマジナリーフレンドはいないのか、気になることはたくさんあります。機会があったら聞いてみたいですね。

それでも、その時その子が勇気を出して答えてくれたであろう一言で、【「頭の中の友達」がいる人は私以外にもいる】という事実が、当時の私を何よりも奮い立たせてくれました。

大学生


インターネットが社会に普及して、企業に限らず個人発信のコンテンツがどんどん増えた頃。
自分と同じような人がいないか検索しまくって、ようやく「イマジナリーフレンド」という単語に出会いました。

この単語に出会ったときは、すとーーーんと槍が刺さったような感覚がしました。
「あぁ、日本語でこんな単語があるなら、似たような人は日本でもこれだけいるんじゃん」「世界にはもっといるのかもしれないじゃん」って思えました。

高校のスクールカウンセラーが言っていた、【病気じゃなくって個性だよ】の意味が、やっと腑に落ちるようになりました。
自分の中で、形を成さずにもやもやとしていたことが、ひとつの名称がつくことでこんなにもスッキリするんだなぁ、という体験のひとつです。

音楽大学に進むことができたので、大学生活も朝から晩まで音楽に浸かっていましたし、バンドを組んで練習とライブに明け暮れていました。
3年程で活動休止したのですが、とてもよい経験ができました。

何がきっかけだったのか失念したのですが、この頃にもひとり、「イマジナリーフレンドがいる人」に出会いました。
あ!ほらー!やっぱりいるんじゃん!っていう、確信が持てましたね。
類は友を呼んだだけかもしれないですけど。それでも「自分だけじゃない」っていうのはすごく心強かったのです。
今、その子はどういう状況なのかなぁ。一度インタビューしてみたいです。笑

東日本大震災を経て

HSPの性質が一番悪く出たのが、東日本大震災でした。
当時私は大学(関東地方)の寮の自室にいて、部屋の中の倒れそうなものを避難させ、机の下にもぐり、窓から見える向かいの建物のアンテナが折れそうなほどぐわんぐわんと揺れているのを呆然と見ていました。
寮は電気と水道とガスが止まったのですが、建物には大きな被害がなく、避難はせずに寮の中で過ごすことができました。

つらかったのが、不安がぐるぐるとうずまいている環境にしか身を置けなかったこと、暖房がつかないので布団の中でぶるぶる震えていたこと、情報が錯綜しパニックになったこと。

そしてなにより、寮に住んでいたのでいろんな地方の子たちが集まっており、「地元の家族や友達と連絡が取れない!」と泣いている子たちを見るのがつらかったです。

その日以降、震災の話題に触れるたびに、自分自身が体験した地震の怖さを思い出すと同時に、周りの人が受けている精神的ショックをキャッチしてしまうようになりました。
その場の状況に共振しやすいHSPの性質が、毎日のように裏目に出ることが続きました。
そしてそれが発散できるわけでもなく、自分の中に延々とかかえこんでいました。

建物の被害がなかった地域にいた私がこのパニック状態だったので、被災された方への影響がいかほどのものだったか、はかり知れません。

このときから、創作意欲がぱったりとなくなってしまい、本当にもう、井戸が枯れたように、曲を作ることができなくなってしまいました。
イマジナリーフレンドと話すことはできるものの、それを音楽としてアウトプットすることができなくなりました。

実を言うと、この震災のときのショックが少し和らいだと感じられるようになったのは、2019年になってからでした。ほんの最近です。
HSPについてとある女性と話していたとき、「震災のときの衝撃がまだ癒えないんですよね。直接被災したわけでもないのにって思うんですけど。」とこぼしたら、その女性から
「しょうがないです。あの震災はそれだけのものでした。今も傷が癒えてない人はたくさんいます。HSPなら尚更です。」
ときっぱり言われて、あぁそうか、そうだよなぁ、と思えるようになりました。

HSPだと、快感も不快感も、ダイレクトに蓄積しますよね。
今も私は自分の性質とどうにか折り合いをつけて、不快なものからは距離を置き、心地好いものを近くに置く練習を続けています。
そうやって地道に体質改善するのが一番早いんだろうなぁ、と。
とてつもない衝撃の快感が自分の身に降りかかるのも少し期待しますが。笑

社会人:20代


音楽で食っていきたいと思って、定職に就かずふらふらしていました。
今も似たような状況ではあります。笑

正直申し上げまして、20代後半まで思春期が抜けなかったなぁという実感です。
ぶっちゃけ「イマジナリーフレンドは自分の大事な一部、イマジナリーフレンドがいなくなるくらいなら大人になりたくない」ってずっと考えてました。

大学時代とは環境が変わったことで、「久しぶりに曲を作ってみようかな…」と思えるようになり、弾き語りでのライブ活動を本格的に始めました。
ただ、前のように衝動的に一曲を短時間に仕上げることはできず、時間をかけて納得がいくように組み上げるような作り方に変わりました。

20代のときは、あーちゃんとはもちろん一緒に過ごしていましたが、もう一人近しい存在のイマジナリーフレンドが増えました
「空蝉(うつせみ)」という子です。

不思議なんですけど、一緒にいるイマジナリーフレンドが変わると、景色も変わったように見えました。
あーちゃんと一緒にいるときと、空蝉と一緒にいるときの、五感に入ってくる情報が違う感じがするのです。
イマジナリーフレンドがひとつのアンテナというか、フィルターというか、そういうものになって、自分と外界をつないでいるような感覚になります。

空蝉は、小学校の頃に作っていた物語のキャラクターのひとりでした。
大人になってイマジナリーフレンドとして再会したとき、何かにとても傷ついていた様子で、今思えば自分の感性のズタボロ具合が投影されてたんだろうなぁと思います。
一緒に美術館や映画を見に行き、帰りの電車で感想を話したりしました。
空蝉の視点から語られる情報は私にはないもので(これも不思議なんですよね、イマジナリーフレンドがいる方経験ありません?)、そのやりとりがとても楽しかったです。

お察しの通り、こうしてイマジナリーフレンドをかかえたまま、30代に突入しています。笑

社会人:30代(現在)


20代後半から、ライブのMCで「イマジナリーフレンド」のことを話すようになりました。
「イマジナリーフレンドがいること」は私の感性を構築する大事な要素だったので、それについて触れながら音楽を聴いてもらう、ということをやってみたかったのです。

ライブが終わった後、たまに直接感想を言ってくださるお客さんがいて、「イマジナリーフレンドっていう言葉を初めて知りました」という感想もちょくちょく聞きました。
なんてことない小さいブッキングライブのいちMCで、「へぇ~」って思うだけだったりスルーしてもいいはずの内容なのに、わざわざ直接伝えに来てくださるなんて、なにかしらがその方の琴線に触れたんだろうなぁと、私の方が感動することも多くありました。

そうして、ライブと曲作りをマイペースに重ねていたのですが、30代に突入する頃、仕事が忙しくて体を壊して倒れてしまいました。
いったんすっぱりと仕事を辞め、治療に専念することにしました。

ぶっ倒れて気力体力がなくなったことで、なけなしの創作意欲が再度尽きてしまいました。
薬の副作用で眠気だけが強化され、ひたすら家で一人で眠って安静にする日々でした。

ただ、転んでもタダでは起き上がらないというか、「よっしゃ、仕事も辞めたし、起業したろ!」と思って、仕事を辞めた2ヶ月後に開業届を出して個人事業主になりました。笑

(世の中には「失業保険」っていう便利な仕組みもあるので、よい子はいろんな制度を調べようね!私は「嫌になった会社で得た金なんて欲しくねぇよ!」っつって失業手当を受け取らずに起業したよ!周りからはもったいないことをするなって怒られたよ!笑)

毎日眠気がひどくて、外には滅多に出られなかったんですが、動画を見たり活字を追ったりするのはできたので、YouTubeを見たり本を読んだりして数ヶ月過ごしていました。
ここで、心理学(とくにHSPについて)や、起業・経営・経済についての情報収集をして、自分の中に脳みその栄養を蓄える期間にしようと思いました。

とはいえ、体はしんどくってそれに心も引っ張られる日も多いので、こんなに苦しいならいっそ死にたいなぁ…と思う日もあり。
そういうときは「よし、いっそ死ぬならめっちゃ美味しいものを食べてから死のう」と思って、高級スーパーで食べたいもの全部買ってきて思いっきりお腹を満たしてから寝たり。
「いっそ死ぬなら見たい映画を見てから死のう」と思って、テレビで好きな映画を延々と見てそのまま寝たり。
「死んだらこの部屋を他人に触られるのか…ちょっとまずいものを処分しておこう…」と思って掃除してから疲れて寝たり。
そうこうしてると、起きたらちょっと具合がましになってて、「あ、やっぱあの漫画の新刊が発売されるまでは生きとこっかな」とか思えたり。笑

「HSPなら、いいことの影響も増幅しやすいんだろうな。自分にとって心地いいことをいっぱいインプットしてあげよう」という発想の転換ができてからは、楽になるペースがはやくなっていきました。
上記の3つはいい例ですね。
知らないうちに、自分にいい影響を与えるものを求めていたんだと思います。

体力が少しずつ回復してからは、曲作りを再開したり、文章を書き溜めたり、YouTubeの投稿を初めてみたり。
自分の創作活動で少しずつ収入を増やし始めながら、それだけではまだ生活費をまかなえないので、去年からまた外でも働き始めました(もちろんWワークOKのところです)。
まだ、演奏活動を再開できるだけの体力は回復できていませんが、今の自分のペースで、もっと活動の幅を広げて・掘り下げていけたらいいなぁと思っています。

おわりに


30代に突入してから、HSPの性質と前より上手に付き合えるようになり、ストレスを抱えることが少し減りました。
また、それに伴い、イマジナリーフレンドの暴走が減り、今はイマジナリーフレンドとつかず離れずのちょうどよい距離感で過ごしています。

長かった思春期が終わったことで(本当に長かった。笑)ホルモンバランスに振り回されなくなったこと、体を壊したことで自分の内面を再構築する期間が持てたこと、アウトプットする体力が回復したことで行動による状況の整理ができるようになったこと、がとても大きいんだと思います。

人の人生はそれぞれですから、私が提供したすべてが参考になることなんてめったにあることじゃないでしょうけれど。
それでも私の体験談・経験談が誰かの目に触れることで、「あぁ、自分だけじゃなかったんだ」という安心感の材料になるのなら、それはとても嬉しいです。
私が昔、友だちから打ち明けてもらって、私も同じ安心感を抱いたように。

それでは、また。