「名付けようのない踊り」、【速度を受肉して踊る】ということ。


2022年2月某日、映画「名付けようのない踊り」を見てきました。
映画監督の犬童一心さんが、ダンサー・田中泯さんを数年間追った、ドキュメンタリー映画です。

私が田中泯さんを知ったのは、映画「るろうに剣心 京都大火編」の翁役。


「こんなかっこいいおじいちゃん見たことないんだが!?
 俳優さん!?
 今までどんな作品に出てた!?」
と気になって、帰ってすぐにネットを検索した覚えがあります。

それから数年、あれよあれよと泯さんに惹かれ、
今回の映画も発表されてから大変楽しみにしていました。

*

今回の映画は泯さんの「踊り」の活動を追ったドキュメンタリー作品で、
映画の冒頭も踊りから始まります。

外国の道の片隅で踊る泯さん。

私の心の中には「受肉」という単語が浮かびます。

何が受肉しているのか、何を受肉しているのか、
自分の中でもまだよくわからないまま映像は進み、
その受肉は「赤ちゃんの受肉」であったり、「時間という概念の受肉」であったり、
と思うようになりました。

映画の中で、うろ覚えで大変申し訳ないのですが、
「地球にはいろんな速度のものが一斉に存在している」
というような語りがありました。

人間の速度、植物の速度、微生物の速度。

そのモノローグの中、植木の木々の中に頭からうずまっていく泯さん。

あぁ、泯さんが踊っているのは「速度の受肉」なのかぁ、と、自分の中で腑に落ちました。

*

泯さんは、東京大空襲のまさにその日に生まれたそうです。
少しだけ、私と泯さんの共通点を見つけたような気持ちになりました。

私の誕生日は八月六日、広島原爆の日で、小さいころから
「なんで大勢の人が死んだ日に生まれたんだろう」だとか、
「大勢の人が死んだ日に誕生日を祝うのは申し訳ない気分になる」だとか、
そういう薄暗い気持ちが心の底にずーっとありながら誕生日を迎えていました。

(よかったらそのエッセイもどうぞ)

八月六日コンプレックス

泯さんも、東京大空襲の日に生まれて、
「人がたくさん死んだ日に生まれたこと」や
「自分の誕生日の日に『死』が近かったこと」について、
どっかで考えたことがある人じゃないかなぁ、と、勝手に親近感を持ちました。

*

泯さんの幼いころの話もいくつか出てきて、
その多くが山村浩二さんのアニメーションで描かれています。
その中で印象に残ったお話。

泯さんは小さいころ、川から上がった死体を、父親に見せられた体験があるそうです。

そのころってたぶん、戦後まもないくらいで、
現代よりずっと汚かったり、死体が身近だったりするとは思うのですが。
(そういえば、映画の中で「ションベンくさい女の子」のお話も出てきましたね。)

川から上がった死体って、どんな色・形・匂いだったのか。

泯さんはそれを実際に見ているんですよね。
幼いころに見て、それを今でも覚えてらっしゃるんですから、相当な衝撃を受けたんだと思うんです。

それで気付いたんですが、私は生まれてこのかた、きれいな死体しか見たことがない。

多くは寿命や病気で亡くなられた方のお葬式で。
あるいは、飼っていたペットのなきがらを。

一番ひどい状態のものといっても、車の中から見た、はねられて動かないタヌキ、くらいのもので。

この先、願わくばきれいな死体だけ見ていきたいものですが、
(それが一番平和な世の中で見られるものだと思うので)
将来の私は、どんな死体を目にするのか、あるいは自分自身がどんな死体になるのか、
少し思いを馳せました。

*

泯さんの踊りは「場踊り」と呼ばれ、
その場やそのときの音楽に合わせて踊られます。

一見、子どもでも踊れるような踊りです。
そのときの感情で、体を自由気ままに動かしているだけのように見えます。

まるで、ピカソの絵を見て、
「これなら自分にも描けるんじゃないかな…」
「こんなの、子どもが描いても一緒だよ〜」
と言ってしまうのと同じように。

じゃあ、自分が同じように、それを踊ろうと思うと、本当に踊れるか?
恥ずかしげもなく、多くの人が見ている中、地べたに寝そべって、躊躇なく顔をつけられるか?
指先や、足先や、からだの内側の筋肉を、そのとき自分が表現したい思い通りに動かすことができるか?

泯さんの踊りは、泯さんの体と心の今までの道程によって作り上げられているんだと、まざまざと感じます。

ピカソが、30秒で描いた絵を「これは30年と30秒かかって描いた絵です」と話した、という逸話と同じように。

泯さんの踊りは泯さんにしか踊れないし、あなたの踊りはあなたしか、私の踊りは私しか、踊れないのでしょう。

*

泯さんの体は、農業でできています。
「踊りのために体を作るのではなく、農業で作った体で踊りたい」
と思ったのだそうです。

私は、歌を歌ったり、ピアノを弾いたり、曲を作ったりするのですが、
「音楽のために生きるのか」
「生きるために音楽をするのか」、
考えたことがあります。

私は後者の人間で、生きにくい世の中を生きるための手段のひとつとして、
音楽を摂取したり排泄したりしています。

それは、圧倒的に「自分のための音楽」です。

私は、誰かのために音楽をすることが、できません。

『人のためになることをしなさい』
『人が好む音楽を作りなさい』と言われて、
それをやったこともありましたが、

続けるうちに体と心を壊して、音楽を聴くのも嫌になったり、
歌おうとすると涙がこぼれて歌えなくなったり、曲がまったく作れなくなったりして、
音楽の排泄ができなくなり、そのうち鬱になりました。

泯さんのおっしゃる「農業で作った体で踊りたい」という言葉は、私にとっては大変な励ましの言葉です。

生活の中で心身を鍛えて、それを踊りに還元する。

泯さんの農業は生活の中でも大きく占めていて、
それは農作物という形となって誰かを喜ばせていて、
(泯さんの作る野菜やお味噌などは、大変美味しいんだそうです)
泯さんの体は農業で得て、それは場踊りという形で還元されていく。

私は今まで、人生のすべてを音楽で還元しようとしすぎていたのですが、
泯さんの「農業と踊り」のように、
生活に音楽以外の要素をなにか取り入れて、バランスをとってもよいのかなぁ、と思えるようになりました。

*

私は少し前まで、「短命ゆえの人生の密度の濃さ」みたいなものを信じていて、
「はやく何かを成さないと」と、とても焦っていました。

音楽ばかりおいかけて、それができなくなって鬱になって、
なんて生き急いだ生活をしていたんだ…とやっと気付いて、
じゃあこれからどうすればいいんだろ…と途方に暮れたことがありました。

農業や生活の中で心身を鍛え、それを踊りに還元する泯さんの体と踊りは、
短命ではないはずなのに、とても密度が濃く感じます。

この映画の泯さんを見ていて、
「長く生きるからこその濃さもある」
「お酒のような・大きい岩のような・樹の年輪のような密度」
というものを、ひとつのかたちとして知覚できるようになった気がしました。

泯さんは、密度の生き証人、みたいな、仙人、みたいな存在のようにも感じます。

でも、圧倒的な「人間らしさ」も感じるんですよね。
泯さんの若々しく瑞々しいふくらはぎやアキレス腱にはとっても惚れ惚れしました。

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映画の中で、ダンサーの石原淋さんの踊りを泯さんが指導するシーンがあります。

「壁の隙間に顔が入り込んでいくにはまだまだ時間がいる、まだ早い」
というような言葉がけをしていました。

ここでも「速度の受肉」の登場です。

よくテレビで見かけるようなダンスであれば、曲のテンポやリズムに合わせて体を動かしますが、
泯さんの踊りは、そのテンポやリズムというのは曲の拍子ではなく、
「生き物の生きる速度」なんだなぁ、と思いました。

壁に人体が溶け込んでいくさまを表現したいとき、
その速度をきちんと腑に落としてから、
自分の体で忠実に再現する。

呼吸すらも「踊り」の一部として存在している。

まるで、映像を見ながら、瞑想をしているような体験をしました。

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また、海外での場踊りの映像も豊富に出てきます。
パリで場踊りを行った後、現地の人と質疑応答をしているその内容がとても印象的でした。

泯さんが言っていた、
「私の踊りを見て、一緒に踊り始める子どもがいる」
「私が踊っているだけが踊りなのではなく、私とあなたの間に生まれるものが踊りなんです」
という言葉。

私が思うに。
誰かが大変素敵な絵を描いていて、
それがどこにも発表されずにいても、素敵な絵には違いないのですが、

どこか他人の目に触れられるとこに飾ってあって、
それを目にした人の心になんらかの感動が生まれたら、
その絵は自分以外の人を巻き込んで、さらに豊かな世界を彩るんだと考えます。

泯さんの踊りもそうで、誰が見ていないところで踊っても泯さんの踊りは素晴らしいことに変わりなく、
それでも誰かが見ているところで踊り、見ている人の感情を揺さぶるのであれば、
その踊りがもたらした影響ははかりしれないくらい大きくなるんだと思うのです。

踊りの実行者の立ち位置と、その観測者の立ち位置だったところから、
観測者の心が動いたときに、その人も実行者になり得る世界。

泯さんは、「(私の場踊りに遭遇した人は)内面ではみんな、踊っていると思います」と言っていたのですが、
それが観測者から実行者になった第一歩なのではないかな、と思います。

*

さて、だいぶ長々と書きましたが、これでおしまい。

福島で撮影された踊り。
津波の被害にあった場所で、建物の残りに糸を張り巣を作った蜘蛛に遭遇します。
その蜘蛛を見て、泯さんはとても感動されていました。

おそらく、「命がすべてリセットされた場所に宿った、新たな芽吹き」のようなものを、
その一匹の蜘蛛に感じたのではないかな、と思います。

そして、蜘蛛の生きる速度を泯さんが受肉し、即興で踊ります。

泯さんの手にかかれば、どんな速度も踊りになるんでしょう。
そして、どんな速度でも踊りにするために、泯さんは農業に励むのでしょう。

「名付けようのない踊り」大変素晴らしい映像作品でした。
映画館独特の没入感の中で見ることができて、本当によかったです。

*

まだまだ書きたいことがあふれているので、来月のエッセイに続きます。

次は、田中泯さんと、私が今まで好きになった著名人の方々との共通点です。
バンドDIR EN GREY・ボーカルの京さん、俳優の土屋太鳳さん、書家の篠田桃紅さんについて、
好き勝手にめちゃくちゃ語ろうと思います。

それでは、また次回。