イマジナリーフレンド持ちが見た、映画「ジョジョ・ラビット」


こんにちは。
シンガーソングライターのkaworuです。
曲を書きつつ、ときどき歌いつつ、こうしてエッセイを書きつつ、「イマジナリーフレンドがいる大人」として情報発信をしています。

今回は、映画「ジョジョ・ラビット」の感想です。
この映画にはイマジナリーフレンドが出てくる(しかもヒトラー!)と聞いて、イマジナリーフレンドがいる人間としてこれは見とかなきゃいかんだろうと思って行ってきました。

目次

1. 映画「ジョジョ・ラビット」について
2. 「イマジナリーフレンド」とは?
3. イマジナリーフレンドがヒトラーって有り得るの?
4. イマジナリーフレンドと話すということ
5. 「イマジナリーフレンドがいる」ということは、大抵カミングアウトしない
6. キャプテンKという大人
  ∟「俺もガキの頃…」という台詞からわかること
7. 大人になるということ
8. イマジナリーフレンドの死
9. 魂の解放のダンス
10. イマジナリーフレンド持ちが見た「ジョジョ・ラビット」とは

映画「ジョジョ・ラビット」について


2019年公開のアメリカ映画。
タイカ・ワイティティが監督・脚本・「空想上のアドルフ」をつとめる。

第二次世界大戦中のドイツ、主人公は10歳の男の子「ジョジョ」。
ジョジョはイマジナリーフレンド(空想上の友人)の「アドルフ」とのやりとりに勇気をもらいながら日常を過ごしています。
ジョジョはお母さんの「ロージー」と二人暮らしですが、とあるきっかけで自宅の隠し部屋にユダヤ人の少女「エルサ」を発見。お母さんはジョジョに黙って、少女を匿っていたのでした。
お母さんの目を盗んで交流を重ねるジョジョとエルサ。
やがて第二次世界大戦は終戦をむかえ…。

というのが、おおまかなあらすじ。

「イマジナリーフレンド」とは?


イマジナリーフレンドは、その名の通り「空想上の友人」。
病気や怪しいスピリチュアルなものではなく、一般的に起こる心理現象です。

例えば。
小さい子がぬいぐるみを相手におままごとをしている、そのぬいぐるみは「イマジナリーフレンド」です。
ぬいぐるみではなく、架空の存在を作り上げておままごとをしている、その架空の存在も「イマジナリーフレンド」です。
きっと誰もが目にしたことがあるでしょうし、自分もそうやって遊んだことがあると思います。覚えていないかもしれないけれど。

多くの人は成長の過程で忘れていったりなくなったりするものですが、大人になってもイマジナリーフレンドとのやりとりが残っている人もいます。
私もその一人です。
イマジナリーフレンドがいる人は感受性が豊かな人だと言われています。
個人的には、HSP(感受性が豊かすぎて困っている人)が多いんじゃないかなぁ?と思っています。

ということで、私は
「イマジナリーフレンドで困ってる人~、それは病気じゃないよ~」
「小さい頃はみんな当たり前にある心理現象なんだよ~」
「大人になってもイマジナリーフレンドがいる人もいるよ~」
「HSPでしんどいなら、こう対処したらちょっとは楽だよ~」
っていう情報を発信しています。

「ジョジョ・ラビット」のジョジョにもイマジナリーフレンドがいますが、それは別に精神病でもなんでもなく、小さい子には当たり前の存在なのです。
しいて言えば、「ジョジョが感受性豊かな子であるとわかる描写」に他なりません。

イマジナリーフレンドがヒトラーって有り得るの?


ずばり言いましょう。ありえます。

イマジナリーフレンドになる対象は様々です。
歴史上の偉人、実在している人、漫画やアニメなどのキャラクター、すべてイマジナリーフレンドになりえます。
もちろん、イチから創造したキャラクターも、持っているぬいぐるみも。

この映画で面白いのは、「当時リアルタイムで活動していた政治家」がイマジナリーフレンドという設定。
だって、今の日本で言ったら、現役の総理大臣がイマジナリーフレンドとして自分のそばに存在するってことでしょ…?笑
まぁ、政治家ではなく「大活躍の芸能人がイマジナリーフレンド」ならなきにしもあらず、って感じではあります。
自分に勇気(もしくは癒し)をくれる存在を心の片隅においておく、ってことですよね。

映画の設定をありきたりにするならば、例えば「可愛がっていたぬいぐるみ」だとか、はたまた「天使」「妖精」といったたぐいであるとか、「自分と似た年齢の架空の友人」だとか、そういうものがイマジナリーフレンドになりがちです。

ジョジョがどうやってアドルフをイマジナリーフレンドとしてむかえたのか。
(むかえた、という単語は適切ではないかもしれませんが。)
その経緯は作中では語られませんが、少なからず、ジョジョがアドルフと「会話をしよう」「交流しよう」と思ったきっかけになるなにかがあるはずなのです。

裏を返せば、感受性豊かであろうジョジョのやわい心に、当時のヒトラーの存在がどれだけ強烈だったか。
どれだけメディアへの露出があり、小さい子にまで認知される環境だったか。
心優しいはずのジョジョが、自分を鼓舞するためのドーピング剤的存在として「アドルフ」を作り、ユダヤ人への敵対心を抱くまでに至ったか。

ジョジョに「アドルフ」というイマジナリーフレンドがいるということは、感受性豊かな子どもまでもが戦争の環境の真っ只中にいた証明なのです。

イマジナリーフレンドと話すということ


作中で思わず笑ってしまった「イマジナリーフレンドあるある」がありました。
それは、「アドルフが他人に向かって叫んでも聞こえないとわかっている」こと。

そうそう、わかってるんだよね!!
これが自分の頭の中だけの存在だって自覚はしているのです。

自覚しているけど、それでも向こうは勝手にしゃべってくる。
自分のことを肯定ばかりしてくれるわけではなく、自分の本意でないことや自分の視点にはないこともしゃべってくる。

私がよくやるイマジナリーフレンドと自分以外の存在とのやりとりの一例を挙げてみます。

イマジナリーフレンドと一緒に電車に乗ります。私の隣の席が空いているので、そこにイマジナリーフレンドが座ります。
電車内が混んできたら、他人は勝手に空いている席に座りますよね。
私のイマジナリーフレンドは、「どうぞこちらに座ってください」って声をかけてから席を譲るのです。
もちろん他人にはその声は聞こえないし、見えてもいません。
そういうものだと分かっているんですけれど。
私の頭の中では、そのやりとりが自動的に組み込まれているのです。
なんなんでしょう、私にもよくわかりません。笑

アドルフが他者にむかって怒鳴り、ジョジョが「言っても聞こえないよ」とアドルフにさとすシーンは、私にとっては面白ポイントめっちゃ高い場面でした。
なんで監督はこの感覚を知ってるのかなー!
あと、アドルフが窓ガラスを割って出ていくシーンね。
実際には窓ガラスが割れることなんてないのに、自分の脳みその中では「窓ガラスが割れて、音も聞こえて、アドルフが出ていく」のがちゃんと再現されるんですよね。ほんと不思議。自分の想像力にびっくりすることある。

アドルフがあまりに画面に馴染んでいるのですが、他の人には見えていない。
あの画面は「ジョジョが見ている世界(視界)」なのですよね。
イマジナリーフレンドって、ほんとに自分の視界を出入りするんですよ。
私も似たような感覚がまだあります。

空想の存在のはずなのに、視界に入るし、話しかけてくるし、たまーに触感もある。
(ぬいぐるみのイマジナリーフレンドだと、話しかけてくることが多いかな?物質として在るものだから、視覚と触覚にはダイレクトですよね)

イマジナリーフレンドがいると自覚している人は、大抵「これは自分の頭の中のことだけである」とわかってはいるのです。
脳みその中で自由にやりとりしています。
たまに、自分の創造の範疇を超えるようなことをイマジナリーフレンドが勝手に動くのでびっくりしたりもします。

「イマジナリーフレンドがいる」ということは、大抵カミングアウトしない


映画の中のジョジョもしていないですね。
していないんだけど、自分とアドルフとやりとりをするときに自分の言葉は発してしまっているもので、周りの人には「ん?何かと会話をしているな?」っていうことがバレてはいる。
エルサとキャプテンKにはバレていました。

カミングアウトしなくても、わかる人にはわかる。
現代の日本でも、小さい子が見えない存在とおままごとをしていたら、「そういう遊びをしているんだな」で周りの大人は済ますでしょう。

ただ、大人になってもイマジナリーフレンドがいる場合、なかなか他人には理解されないことが多いと思います。
私もまだ近しい知り合いにはカミングアウトをほとんどしていません。
こうしてインターネットを使って発信したり、自分が音楽を演奏するときのMCで話すくらい。

「イマジナリーフレンド」という単語すら、多くの人は知らないはずです。
私が知ったのも、インターネットサーフィンをしていた大学生のときでした。物心ついたときから、自分の頭の中のコレは何なのかと、ずーっと困っていたはずなのに。

映画の中では、それを解説してくれる大人が存在しました。
それが「キャプテンK」です。

キャプテンKという大人


映画を見ている最中は「ふざけた大人だなあ…」という印象が強かったキャプテンKですが、この文章を書き始めて映画を反芻するにつれて、「あれ、私思ったよりキャプテンKのこと好きなんじゃん…!?」って思い至りました。笑

クレンツェンドルフ大尉、通称「キャプテンK」は、作中で最初から最後までジョジョに関わる重要な大人のひとりです。
ヒトラーユーゲント(青少年集団)で子どもたちを指導する立場にあるので、さぞナチスの思想に傾倒しているかと思いきや、意外な一面をどんどん出してきます。

ジョジョにイマジナリーフレンドがいることを見抜き、「俺もガキの頃、空想の友達(イマジナリーフレンド)に困らされたもんだ」という台詞を述べます。

これがどれだけ重要な台詞か!!!!!!

「俺もガキの頃…」という台詞からわかること


もうこれだけで見出しを別に作ってしまうくらいには書きたいことがたくさんある。

いうなれば、名探偵コナンの重要シーンで、誰かが
「君は一体何者なんだ…!?」
とつぶやいたあとに、コナンくんが
「江戸川コナン、探偵さ…」
って返す、あれと同じレベルで重要な台詞ですよ!!!!!!
(今コナンにどハマりしてるのでこの例えしか思いつかなかった)
その作品において何が中心に置かれているかを台詞としてあらわした、重要な場面です。ってことが言いたい。笑

キャプテンKのこの場面で、これだけのことがわかります。

  • キャプテンKが小さい頃、自身にもイマジナリーフレンドがいた
    →キャプテンKも感受性が強い子どもだった。
  • そしてイマジナリーフレンドがいたことを大人になった今でも覚えている
    →今でも感受性が強い大人である可能性が高い。
  • 作中で「イマジナリーフレンド」という単語を口にしたのはキャプテンKただひとり
    →映画を見ている観客の説明役・味方であり、それはすなわち主人公サイドであることを示している。
  • イマジナリーフレンドの存在を知る大人と知らない大人がいる中、キャプテンKはそれを知っており、口に出して説明までする
    →子どもにはとても心強い存在である。子どもの心やその世界を否定しないから。子どもを裏切らない大人という暗示。

もうね、このシーン見た瞬間、「あ、キャプテンKは主人公サイドの人間なんだ、悪い大人じゃないんだ」ってわかるんですよね。
そこからはどんどんジョジョを守る大人として、大きく存在感を増していく。

だからこそ、秘密警察とかちあったときには安心感があったり、ラストシーンでジョジョの心を肯定し逃がすところで感動が爆発するんですよね。
そして最後の銃声で「あああああキャプテンんんんん」ってなるのです。


そして、作中では明言されていないけれども、「おや?キャプテンKはもしかして同性愛者なのでは…?」とにおわすような描写もあります。

言い方が乱暴にはなりますが、マイノリティに所属する人たちはどうしても、自分や他者の感情の機微であったり、「こう行動したらこう見られてしまう」という自身の振り返りだったりというものが、マジョリティの人間よりも多く深く考えざるを得ない立場にあると勝手に思っています。

ましてや映画の舞台は、第二次世界大戦中のドイツです。
キャプテンKはどれほどいろんなことを自身で考え、振り返り、行動を直し、あの立場にいたのでしょう。
しかも子どもの頃にはイマジナリーフレンドがいて、それを大人になっても覚えているような、感受性が強いであろう性質だと予想すると。
クライマックスで、派手な化粧をし、派手な軍服を纏い、戦闘に突入するキャプテンKの雄姿に涙です。

やっぱり私はキャプテンKが大好きっぽいです。笑

大人になるということ


作中において、「靴」や「靴紐」がとても印象的に描かれています。

「靴紐を結べない」という描写が頻繁に出てくるジョジョ。
『靴紐を自分で結べないほどの、まだほんの子どもである』ことを表しています。
口ではどんなに偉そうなことを言っても、自分の靴紐すら自分で結べないのです。
ジョジョはお母さんに靴紐を結んでもらっています。
お母さんがいないと何もできない、ほんとうに、まだ小さい男の子。

お母さんはとても素敵な靴を履いています。
作中で、「あ、これはお母さんの靴/足元だ」とわかるシーンがたくさんあります。
そして、「あの靴を履いているのはお母さんである」と観客が共通の認識を持ったころ、衝撃的な場面が描かれます。

ひとつの靴の描写で、なんと雄弁に「死」を描いているのでしょう。
お母さんの歩む足、ステップを踏む足が止まってしまい、もう動かない。

ジョジョは、そのお母さんの靴の靴紐を結ぼうとしますが、上手に結べません。

あの衝撃をきっかけに、「靴紐を結べる存在=大人になろう」としますが、でもそれがうまくいかないのです。
衝撃だけでは、子どもから急に大人になることなどできないのです。
大人になる・靴紐を結べるようになることには、練習が必要なのです。

イマジナリーフレンドとの対話は、自分との対話だと私は考えています。
精神的な揺らぎの場面において、イマジナリーフレンドは自分の視界に現れますが、
肉体的な死の実感や、命を落とすかもしれないという恐怖が身近にあるとき、イマジナリーフレンドは出てきにくい状況にあると思っています。
(ほんとの原理はわかりませんけど!私の体感として。)
(例えば、病気でしんどいときって、私の視界にはあまりイマジナリーフレンドは現れないのです。メンタルがしんどいときの方がよく話すかも。って印象)

ジョジョが靴紐を結ぼうという意欲を作中で初めて見せたのは、自分の靴ではなく、お母さんの靴に対してでした。
皮肉にも、イマジナリーフレンド(自分)との対話ではなく、自分以外の人間との関わりで、成長しよう(靴紐を結んでみよう)という意欲が行動に変換されたのです。

イマジナリーフレンドの死


映画の後半、ジョジョはイマジナリーフレンドのアドルフを葬ります。

イマジナリーフレンドを葬ることは、自分の子どもの部分を捨て、大人になるということです。


そもそも、この作品におけるアドルフは、イマジナリーフレンドでありながらジョジョの「愛国心」「洗脳された小さい子ども」の具現化でもありました。

ジョジョがアドルフを葬るシーンでは、

  • イマジナリーフレンドを葬る
    →子どもの心を捨て、大人になる決意をしたという表現
  • 愛国心を葬る
    →植え付けられていた洗脳から溶けたという表現

がたくみに描写されています。

まずもって、ジョジョの感受性豊かな心に、当時影響力の強かった偏った思想がイマジナリーフレンドとして存在してしまったことも悲しいことではあるのですが。
子どもの心をみずから捨ててしまおうと決意するまでに至った、戦争や近しい人の死が関係してくるのも、とても悲しくなります。

イマジナリーフレンドを持つ人は、感受性が強く、創作にはもってこいの性質があると私は考えています。
あらゆる創作は『心の栄養源』です。
それを担える能力がある人が、戦争により能力を失う(もしくは減らしてしまう)ことは、世界の大きな損失です。

以前、映画「プーと大人になった僕」についても紹介しましたが。

「くまのプーさん」というイマジナリーフレンド

こちらは、主人公のクリストファー・ロビンが、父親の死や第一次世界大戦を経て、子どもの心を捨てざるを得なかったというところから映画が始まります。
そこから、子どもの頃に一緒に遊んでいたプーとまた出会うお話しです。
(「くまのプーさんはもともと、クリストファー・ロビンのイマジナリーフレンドだった」っていうことを書いてます、よかったら読んでみてください)

魂の解放のダンス


映画の中では「踊る」シーンがいくつか出てきました。
ジョジョとお母さんのダンスや、ジョジョとエルサのダンス。

戦争の中でも、家でこっそり踊り、魂を解放すること。
誰にも縛られず、自由への一歩を踏み出すこと。

お母さんのロージーは、踊ることや人を愛することを忘れず、とても誇り高い人でした。
そしてそれがジョジョに受け継がれ、最後にジョジョはみずからステップを踏み始めます。
踊ったり音楽を奏でたりというエネルギーが自分の中にある人は、いつでも自由をつかめます。自分の心を他者に明け渡さず、自分のものとして扱えます。

誰かが踊ったり、音楽を奏でたりする描写が私は大好きなのですが、
特に印象に残るのは、こうして「戦争」や「死」が身近なところでの創作・身体表現ですね。
わかりやすいのは、映画「タイタニック」で沈みゆく船の中で演奏を続ける楽団員のシーンとか。

閉鎖された空気の中で、音楽や映画や踊りや、その他芸術・創作を続けられる人たち、それに触れようとする人たちを、私はとても尊敬します。

今、これを書いている真っ最中、新型コロナウイルスの様々な影響が出ています。
芸術分野はどうしても「生命維持に直接かかわらない」「不要不急」のものになりがちですが、私は自分自身の心の栄養源としていつも大事に触れていたいです。
自分の精神状態をよくするためには、私には絶対に必要なものたちです。
だから、今この閉鎖空間でもできる魂の解放を、毎日少しずつ自分なりに積み重ねています。

気が向いたら、自分の部屋で好きな音楽を流しながら一緒に大声で歌ってみるとか。誰も見てないし、ちょっとダンスしてみるとか。
結構気が晴れるものです。
私はよく、お風呂で大声で歌ったり、家事をしながら足元はステップを踏んだりとかします。よいものです。笑
今は、東京事変のアルバムを延々リピートして、好きな曲がきたら歌って、腰でリズムをとりながら、これを書いています。笑

芸術や表現が統制された世の中は戦争と同じです。
自由に踊って歌いたいので、私は今日も音楽を作るし、文章を書くし、ひとりでこっそり踊るし、自分の心を自分で守ります。魂を解放します。

イマジナリーフレンド持ちが見た「ジョジョ・ラビット」とは


長々と書きましたので、そろそろまとめ。

「ジョジョ・ラビット」という映画は、 イマジナリーフレンドの説明をするにはわかりにくい映画かもしれません。そもそもの作中のイマジナリーフレンドが特殊な設定なので。
現実には、ジョジョのように、意図的にイマジナリーフレンドを葬ることはなかなかないと思いますし。ほとんどの人は、みんな自然に忘れていく存在ですし。
ですが、イマジナリーフレンドがいる人の視界を疑似体験できる映画だと思います。

ところどころにコメディの要素があったり(とくにヨーキーが出てくるとニコニコしてしまった。癒されると同時にたくましさを感じて安心した)、音楽がいい場面で効いてくるし。
命の重さばかりでなく、愛ゆえの軽やかさとか、絶妙なバランスで描かれた映画でした。

マイナスポイント…といいますか、HSPの性質としてしんどかったのは、人が死ぬ描写や戦闘シーンがあるので、それにしんどさを感じる人は心の余裕があるときに見てね。
私は、「よし!今日は体調もいいし心も元気!」ってときに見たけど、見終わったあとはそれなりにダメージが強くてぐったりしたので…。

周りにはいろんな人間がいて、他人の感性を殺す人もいれば、他者と自分への愛を持ち続ける人もいるし。
子どもの頃は、自分自身を守る術(すべ)を知らないけれど、自分(もしくはイマジナリーフレンド)との対話だとか、他者との交流で、できることが増えていったり、嫌なものからは距離を置く勇気が持てたり。

イマジナリーフレンド持ちには「あるある」なこととか、勇気づけられることとかがつまった、素晴らしい映画でした。
イマジナリーフレンドを題材にした作品が増えるって、十年前には考えられなかったから、純粋にとても嬉しかったです。

ジョジョはこれから、どんな大人になるんでしょうね。
「僕も小さい頃にはイマジナリーフレンドがいてね…」って言える大人になってたら私は号泣する。

それではまた。