イマジナリーフレンドとの別れ、イマジナリーフレンドの死


以前、映画「ジョジョ・ラビット」の感想を書いたとき。

イマジナリーフレンド持ちが見た、映画「ジョジョ・ラビット」

私にとって、「イマジナリーフレンドの死」を見つめなおすよい機会となりました。

映画の後半で、ジョジョはイマジナリーフレンドのアドルフを葬ります。
そのシーンについて書いていたら、思った以上に熱が入って、文章が長くなってしまいました。

今回は、映画「ジョジョ・ラビット」におけるイマジナリーフレンドの描写と、私が経験したイマジナリーフレンドの死について。
総合して、「イマジナリーフレンドとの別れについて」「イマジナリーフレンドの死とは何か」を考えてみようと思います。

目次

1. イマジナリーフレンドとは?
2. 「ジョジョ・ラビット」におけるアドルフとの別れ
3. 私の経験した「イマジナリーフレンドの死・別れ」
 3-1. イマジナリーフレンドの存在そのものを忘れる
 3-2. イマジナリーフレンドのことはなんとなく覚えているが、名前や詳細は覚えていない
 3-3. イマジナリーフレンドが(現実世界の人間のように)死ぬ
4. 「別れ」と「死」の違い
5. イマジナリーフレンドを知らない大人へ望むこと

イマジナリーフレンドとは?


小さい子が、周りには見えていない『誰か』とおままごとをするだとか、
ぬいぐるみにキャラクター性を持たせてかわいがるだとか。
そういう存在のことを「イマジナリーフレンド」といいます。
直訳してみると「空想上の友人」、心の中のお友達です。

小さい頃にはだれでも当たり前にある心理現象です。
オカルトでも病気でもありません。

成長するにつれ、自然となくなっていくものではありますが、大人になってもイマジナリーフレンドを持っている人はいます。
その人たちは、感受性が豊かであると言われています。

私も、物心がついたときから現在までイマジナリーフレンドがいる大人の一人です。
個人的には、イマジナリーフレンドがいる人はHSP(感受性が豊かすぎて困るほど)の人が多いのではないかなぁ?と思っています。

詳しいことが知りたい方は、こちらの記事も読んでみてね。

イマジナリーフレンドがいるのは病気なの?

「くまのプーさん」って、クリストファー・ロビンのイマジナリーフレンドだったんだよ、ってことも書いたりしてます。

「くまのプーさん」というイマジナリーフレンド

「ジョジョ・ラビット」におけるアドルフとの別れ


映画「ジョジョ・ラビット」の概要について少しご説明。

第二次世界大戦中のドイツ、主人公は10歳の男の子「ジョジョ」。
ジョジョにはイマジナリーフレンド(空想上の友人)の「アドルフ」がいます。
アドルフは、何を隠そう、アドルフ・ヒトラーを模したイマジナリーフレンドです。

ジョジョはお母さんと二人暮らしですが、とあるきっかけで自宅の隠し部屋にユダヤ人の少女「エルサ」を発見。お母さんはジョジョに黙って、少女を匿っていたのでした。
お母さんの目を盗んで交流を重ねるジョジョとエルサ。
やがて第二次世界大戦は終戦に近付き…。

というのが、おおまかなあらすじ。
2019年のアメリカ映画で、タイカ・ワイティティが監督・脚本・「空想上のアドルフ」をつとめています。

感想は前回長々と書いたので、よかったら読んでみてね。

イマジナリーフレンド持ちが見た、映画「ジョジョ・ラビット」

映画が始まった瞬間から、ジョジョはアドルフとのやりとりで自らを勇気づけます。
ですが、お母さんや周りの大人、ユダヤ人の少女エルサとの交流が増えていき、映画の後半でジョジョはアドルフを拒絶し葬ります。

イマジナリーフレンドを葬ることは、自分の子どもの部分を捨て、大人になるということです。

そもそも、この作品におけるアドルフは、イマジナリーフレンドでありながら、ジョジョの「愛国心」「洗脳された小さい子ども」の具現化でもありました。

ジョジョがアドルフを葬るシーンでは、

イマジナリーフレンドを葬る
→子どもの心を捨て、大人になる決意をしたという表現
愛国心を葬る
→植え付けられていた洗脳から溶けたという表現

が、たくみに描かれています。

余談ですが。
映画「プーと大人になった僕」では、主人公のクリストファー・ロビンが、親元から離れる・父親の死・第一次世界大戦を経て、子どもの心を捨てざるを得なかったというところから映画が始まります。
プーのぬいぐるみを箱にしまうのは、自らの子ども心に封をすること。
これもひとつの「イマジナリーフレンドとの意図的な別れ」でしょう。

ジョジョもクリストファー・ロビンも、戦争と親の死があり、子ども心を捨てなくてはいけなかった環境だったのでしょうね。

当時、イマジナリーフレンドという単語があったかはわかりませんが(そういえばジョジョ・ラビットではキャプテンKがその単語を口にするシーンがありました)、
子どもにはそういう空想の存在がいるということが、100年以上前(※くまのプーさんの原作本は1926年に出版されています)には認知されていたのですね。

私の経験した「イマジナリーフレンドの死・別れ」


私は少しジョジョやクリストファー・ロビンとは状況が違いますが、「イマジナリーフレンドが死んだ」ことがあるので、少し書いてみようと思います。

私が思う「イマジナリーフレンドとの別れ」は大きく3つ。

  • イマジナリーフレンドの存在そのものを忘れる
  • イマジナリーフレンドのことはなんとなく覚えているが、名前や詳細は覚えていない
  • イマジナリーフレンドが(現実世界の人間のように)死ぬ

1)イマジナリーフレンドの存在そのものを忘れる


現実でも最もよくあるパターン。
成長により、イマジナリーフレンドという心理現象がなくなり、大人になったら忘れている。

2)イマジナリーフレンドのことはなんとなく覚えているが、名前や詳細は覚えていない


大人になっても、「そういえば昔、架空のお友達を作っておままごとするのが好きだったな~」程度に覚えている感じですかね。
あとは、大事にしていたぬいぐるみを覚えている、とか。
存在は覚えているけど、でも今はその対象に興味を示していないパターン。

「ジョジョ・ラビット」におけるキャプテンKのような大人ですね。
(たぶん。もしかしたらキャプテンKは、明言していないだけで詳しく覚えていたかもしれないですけれど。映画の中ではキャプテンKのイマジナリーフレンドの存在は描かれなかったので、こちらに分類しました。)

私は妄想力が豊かすぎて、イマジナリーフレンドが増えすぎました。
一番近しい存在の「あーちゃん」がいて、あーちゃんの友達、あーちゃんの両親、あーちゃんの恋人…と妄想していったら、いつの間にか一つの街ができるくらいにはパンクしました。数年前に数えたら50人以上いました。いすぎ。
なので、「あの女の子はなんて名前だったかなぁ…顔と性格は覚えてるんだけどなぁ…」っていうことがよくあります。

個人的には、罪悪感10%・悲しさ40%・「私も子どもの心を忘れちゃったのか~大人になっちゃったんだな~」って思いが50%、って感じのメンタル。
まぁ、イマジナリーフレンドがいたっていうのは覚えているので、今現在イマジナリーフレンドと遊んでいる小さい子を見ても、優しく見守っていられるタイプの大人になるかなぁと思います。
まさしくキャプテンKですね。

3)イマジナリーフレンドが(現実世界の人間のように)死ぬ


私が一番ダメージを受けたのがこれ。
罪悪感100%。
なんならもう「ひとりの人間を死なせてしまった…」っていうくらいにしんどい。

前述したように、妄想力が豊かだったのに加え、思春期の感受性の暴走で、イマジナリーフレンドがどんどん死に向かうことが多い時期がありました。

今冷静に考えれば、まぁ軽く言えば中二病ですけれど、その一言では片付かないくらいにメンタルが大荒れだったんだと思います。

ただでさえ、思春期の人間はホルモンバランスの変化でメンタルが荒れますし、「死」について考え始める時期です。
プラス、感受性が豊かすぎて生活にも困るHSP体質の人間は、その時期を楽に過ごす方法を見つけるのが大変です。
自分がHSPという性質だ、ということを知らなければ、なおさら。

私は当時、イマジナリーフレンドという単語も知らず、「自分の頭の中に想像の人間が住んでるなんて、私は頭がおかしいんだ…!」という認識だったので、誰にも相談できませんでした。

HSPという単語も知らず、自分が感受性が豊かであるという自覚もまったくなかったので(これが普通で、みんな同じような感覚を持っているんだと思ってました)、この状況にはひたすら耐えるしかないのだと思っていました。
ひたすら耐えて、耐え抜いた人が大人になっていくのだと。

結果、イマジナリーフレンドが病気で死んだり、事故で死んだり、自殺したり、とかとか。
脳みそが勝手に映像を流して、それでメンタルが大暴落しました。
中学2年から高校1年くらいが一番ひどかったんじゃないかな。

幸いなことに、高校のスクールカウンセラーの先生が「この人は信頼できる大人だ…」と思える先生だったので、相談にのってもらうようになってから落ち着いていきました。

当時、私も先生もイマジナリーフレンドという単語を知らなかったのですが、そのときに初めて、「実はkaworuちゃんみたいに『頭の中に友達がいる』っていう子、今までも何人かいたんだよね~」っていう話を聞いて、
あれっ?もしかして私以外にもこういう人いる!?
って思えるようになりました。

当時のスクールカウンセラーからは「強迫性障害っぽいかな~」とは言われましたが、病院に行ったわけではないので確定診断ではなく。
強迫性障害について調べてもみたのですが、当てはまる部分がそう多くはなく。

ただ、だんだんと体の成長もゆるやかになっていき、ホルモンバランスも落ち着いてきたころ、心も落ち着いてきて、イマジナリーフレンドが死ぬことはなくなりました。

それでも「大事にしていた存在が死んでしまった…」という衝撃は残ったままで、しんどいことには変わりなかったので、死んだあーちゃんの生まれ変わりの存在なる新しいイマジナリーフレンドができました。
なんという泥沼…。笑

なので、死んだあーちゃんの記憶も私の中にありつつ、新しいあーちゃんと今も過ごしています。
イマジナリーフレンドが現実世界のように死んでも、私は、それがきっかけでイマジナリーフレンドと離れることにはなりませんでした。

「別れ」と「死」の違い


イマジナリーフレンドを自然と忘れたり、
イマジナリーフレンドと別れる決意を持って離れたり(ジョジョやクリストファー・ロビンみたいに)、
というのは、「子ども心からの成長」や「子どもの自分とさよならする意思を持って離れる」ことなので、少しの痛みはあれどそう深い傷ではないと思うのです。

ただ、「イマジナリーフレンドが現実世界のように死ぬ」に関しては、
自分の子ども心が何か暴力的な力によって壊されることと近いので、
前述した2つよりもかなり精神的なダメージが大きい気がします。

私の場合、自分のホルモンバランスや感受性の暴走に自分がついていけず、強制的に大人になっていった感が強い。
大人は心がない人が多いから大人になりたくないって思ってましたもん。
嫌な存在に自分がなっていく絶望がすごかった。

蓋を開けてみれば、大人だから心がないのではなく、
なんのこっちゃない、私が感受性がすこぶる豊かな性質だっただけなんですけれども。
「え!?この感覚が普通じゃなかったの!?みんなもうちょっと落ち着いた世界で生きてたの!?何それ知らない!!」ってなりました。笑

大人でも感受性が豊かな人に実際に出会ってから、「子どもの心を持ったまま大人になってもいいんだなあ…」って思えるようになりました。

そしてイマジナリーフレンドという単語を知って、これが病気ではなく一般的な心理現象だとわかったとき、
「じゃあ大人になってもイマジナリーフレンドがいていいんじゃん!」
「大人でも感受性が豊かでいいんじゃん!」
って開き直ることができました。

開き直ったあと、自分の感受性との付き合い方をめちゃくちゃ練習しました。今もしています。
以前よりもだいぶ自分の考えや感情を整理できるようにはなりましたが、やっぱりまだ波はあります。

昔より客観視できて、言語化にチャレンジしている今現在思うことは、

・「イマジナリーフレンドとの別れ」は「子ども心の忘却」
・「イマジナリーフレンドの死」は「外的要因による心の傷」

に近いのだろうなぁ、ということです。

「別れ」はある種の精神的成長痛ですが、私にとっての「死」は結構なトラウマになった衝撃でした。

イマジナリーフレンドを知らない大人へ望むこと


最後に仰々しい見出しをつけてしまいましたが。
世の中の大人に、私が勝手に望むことです。

小さい子が「見えない友達」と遊んでいても、『そんな子、どこにもいないよ』『気味が悪いからやめて』って否定しないでほしいです。とりあげないでほしいです。

イマジナリーフレンドはオカルトや病気ではなく、人間に備わっている心理現象です。
成長すれば、ほとんどは自然に忘れていきます。
感受性をはぐくむための大事な時期であり、ステップです。
イマジナリーフレンドを否定することは、感受性の芽をつんでしまうことに繋がりかねません。

もし、見えない友達と遊んでいるようだったら、そっと見守ってください。
お気に入りのぬいぐるみやおもちゃと会話をしているようであれば、そのおもちゃを勝手に捨てないでください。
子どもたちが自分からバイバイができるまで、待ってあげてください。

イマジナリーフレンドのことがよくわからない人がまだまだ多い世の中だとは思いますが、なにかの拍子に「ふーん、そういうもんがあるのか」って知るきっかけになりますように。
また、今現在イマジナリーフレンドのことで悩んでいる人たちが、少しでもイマジナリーフレンドと程良い距離感になれるきっかけになりますように。
これからも少しずつ、自分の備忘録を増やしていきたいと思います。

それでは、また。