「人形を愛でる」ということ


2021年10月、横浜人形の家に行って来ました。
お目当ては企画展「人形写真家・田中流の眼差し」。
田中さんのお写真と、Twitterで知り気になっていた人形作家の千代田梓さんの展示を見たかったのです。

実は私、人形は少し苦手です。
なんというか、なまなましさというか、意思が宿っている感じが。

ただ、田中さんの目線で写っている人形たちは、「ああ、こういう表情もするお人形さんだったんだ」と思えるというか、
なまなましさがあるお人形を被写体としているからこその、そこから一段階上の『物語』として昇華されている感覚があるというか、
田中さんのフィルターがかかっているからこそ得られる安心感があって、
「人形の実物を見るのはちょっと苦手だけれど田中さんの写真は好ましいな」と思っておりました。

そして千代田梓さんの作品「マグノリア」さんをTwitterでお見掛けし、
なまなましさよりも清涼感がこんなに発されているお人形があるのか…!という感想を抱き、
また、おそらく千代田さんと私はそんなに年が離れていないのではないか(…と勝手に想像しておりますが…)、同世代の人が魂を込めて作っている作品をぜひひとめ見てみたい、と思い、
たぶん今までの私だったら足を踏み入れようとは思わなかった「人形の家」という場所に勇気を出して行ってきたのでした。



せっかく行くのであれば、常設展ともうひとつの企画展「アンティークドール×現代創作人形」の3つの展示を見てみよう!と意気込み、料金を支払い、足を踏み込んだ人形の家。
まずは常設展から。

正直申し上げて、やはり苦手な雰囲気のお人形も多く、背筋をぞわぞわさせながら見て回りました。
その中で珍しく、苦手というよりも作品の力強さの方面で鳥肌がたったお人形もありました。
平田郷陽さんの「粧ひ」という作品です。
http://ex.doll-museum.jp/?attachment_id=2166
(上記リンクは、横浜人形の家の旧公式サイトです。お写真が見られるのでぜひ。)

人形の家の見どころをネット検索していたときに気になっていた作品のひとつでしたが、実物が本当にすごかった。
私が苦手とする「お人形」の雰囲気をなぜか感じることなく、今回一番長く作品の前に立ち止まってしげしげと眺めたお人形でした。
なぜ人形に対する嫌悪感がこの作品の前ではわかなかったのか、自分でもとても不思議で、この後ゆっくりコーヒーでも飲みながら考えてみよう…と思いながらその場を後にしました。



次に向かったのが「アンティークドール×現代創作人形」。
ドールの歴史の解説があったのか大変勉強になりました。
なにしろ近代日本では「人形」は物心ついたときには当たり前の存在じゃないですか、発祥をわざわざ調べたことなんてないものですよね。
現代に通ずるドールのもともとは、洋服店がファッションのアピールのために作ったものだと初めて知りました。
現在活躍されている作家さんの作品の展示はもちろんのこと、アンティークドールから着想を得たオマージュ作品の展示もとても興味深かったです。

ここで私が不思議に思った自分の内面の変化が、
「アンティークドールはちょっと怖く感じるけど、現代の作品はそんなに怖さを感じないぞ…?」
ということ。

そういえば私だって、人形が怖いと思いながら、気に入ったアニメキャラクターの『フィギュア』は自宅にいくつか持ってるんです。
あとはぬいぐるみも持っている。(人形というくくりとはまた違うかもしれませんが。)

この違いはなんなんだ…?これもコーヒータイムにじっくり考えてみよう、と思いながら、最後の展示へ向かいました。



最後に、今回のお目当て「人形写真家・田中流の眼差し」へ。
楽しみにしていたのは、田中さんの写真作品とともに、人形作家さんの作品の実物も展示されているということ。
田中さんのカメラを通して得た印象と、私の目で実際に人形を見たときの印象と、何がどう違うのか、自分でも興味があったのです。

ともあれ写真がメインの展示でしたので、ブース内ではぞわぞわを感じずリラックスして見ることができました。
不思議ですよね、実物は苦手なのに写真は大丈夫っていうこの感覚。

面白かったのは人形作家さんの紹介文。
おそらく作家さんご本人が作られたものなのでしょうか、経歴や人形への思いが込められた皆さんの文章に「ああ、この人たちも今同じ時代に生きて、試行錯誤しながら作品を作ってるんだな…」と思えました。
なんというか、「リアルタイム感」がとても感じられて、それがまたよかったです。

さて。田中さんの写真と、人形作家さんの作られたお人形の実物と、同時に見ながら思ったのが、
『私は「もしこの作品を自分のお部屋にお迎えしたら」という視点で見てるんだ』、ということ。

実物のお人形を、自分のお部屋にお迎えしたら、どこにどう飾ろうか。
田中さんのお写真を、自分のお部屋に飾るとしたら、どう展示をしようか。
っていうことを、ぼんやりと頭の中で想像してたんですよね。
はーーー。自分の新たな一面を発見。

また、実物と写真作品とを見比べて気付いたのは、
『やっぱり写真作品の方が、自分の中では「物語性」を受け取りやすいぞ?』
ということでした。

それはたぶん、私が「お人形」の鑑賞に慣れてないせいも大いにあるんだと思います。
これまでその行為を避けてきたわけですからね…。
実物のお人形からあふれている物語性をうまくキャッチできていないものを、田中さんのフィルターを通して、ある種トリミングされた一部として見ることで、「ああ、こういう雰囲気として受け取ればいいのか」と解釈しやすくなっているのかなぁ、と。

実物を見たかった千代田梓さんの作品は、写真で見ていたよりだいぶ小さくてびっくりしました。
ツイッターで見ていた写真だととっても存在感があったので、もっと大きいものだと思っていました。
すごいなぁ、存在感と繊細さって両立するんだ…。

言い方が少し変かもしれませんが、
『実物を手に取って抱っこをしたら、またお人形に対する自分の価値観が変わりそうだな』
と思ったりもしました。
お人形の素材感、重さ、冷たさに触れたら、また自分の中で何か変化はあるんでしょうね。
はぁ、お人形、奥が深い…。

最後に、ミュージアムショップで千代田さんの作品のお写真を購入して、人形の家をあとにしました。
「マグノリア」さん、やっぱり特別に惹かれる作品です。



さてさて。
その後コーヒーを飲みながら考えたこと。

まず、「私がお人形を怖いと思ったのって、なにかきっかけがあったっけ…?」ということ。

あったんですよ。思い出しました。
ピエロのお人形が怖かったんです。

幼少期、自宅の玄関に、陶器でできたピエロの人形があったんです。小さい子どもの手にも乗るような、小さなお人形でした。
当時、女の人がピエロの格好をして人を殺す映像作品がテレビで放送されて、そのあとからピエロのことがめちゃくちゃ怖くなったんです。
それで、玄関のピエロ人形も動いて私を殺しに来るんじゃないかと思ってしまって、
親に「ピエロの人形をここに置かないでほしい」と泣きながらお願いしたのを思い出しました。
たぶんこのときに、「お人形が動いて私を殺しに来るんじゃないか」という恐怖心が植え付けられてしまったんですよね…。

いや、今考えてみれば、お人形何も悪くなくない!?!?
もとはといえば人間が化けたピエロがあかんくない!?!?(それもフィクションだし)
家にあったピエロの人形も普通のお人形もとばっちりじゃない!?!?!?
って今更気付いてしまいましたよ…ええ…。
まぁしょうがないですよね、小さい頃にそう思ってしまって、ずーっとそれを引きずったまま大人になってしまったんですよね…。

なんにせよ、私の中で「お人形が怖い」という思いは、ピエロの映像作品をきっかけに『お人形が意思を持って動きそうで怖い』という観念を持ってしまったからだ、ということが判明しまして、
はぁ、これが分かっただけでも、なんかこれからの人生が違ってきそうです。
むやみやたらに怖がらなくてよくなった気がします。



そこから次にわいてくる疑問は、「怖いと感じるお人形と感じないお人形は、私の中で何が違うのか?」。

今回人形の家に行って怖くなかったお人形の代表格は、平田郷陽さんと千代田梓さんの作品。
そして先ほども少し書いた、現代作家さんの作品や、私が家に持っているお人形…例えばアニメキャラクターのフィギュアだとか、気に入ってお迎えしたぬいぐるみだとか。

これもね、思い至ったんですよ。
『もし動いたときに、言動や性格がわかるお人形』でした。

平田郷陽さんの「粧ひ」がもし動いたら、おそらく美しく身支度を整えて、ちゃきちゃきと自身の仕事をするんだろうな、とか。
千代田さんの「マグノリア」は、とても物静かで、窓辺で本を読んだりお茶を飲んだりして、まばたきやほほえみもゆっくり動くんじゃないかな、とか。

家にあるフィギュアはそもそもそのアニメのキャラクターをかたどっているので、動いたらそのキャラクターの言動になるって容易に想像できますし、
家にあるぬいぐるみも同じく、公式で性格の設定がある程度なされていたりするので(皆様ご存知ディズニーのダッフィーシリーズです)、こちらもやっぱり言動が自分の頭の中で想像できるんですよね。

逆に、怖いと感じるお人形は、「自分の中で性格や言動がうまく解釈できなくて、どう動くかわからない」お人形。

お人形が作られた背景や、作った人の意図が十分にあるのは重々承知しておりますが、
私自身がそれをうまく受け取れずにそのお人形の性格を把握できないがために「どう動くかわからない」っていう感覚を持ってしまって、
それが幼少期から持っている恐怖心に繋がってるんじゃないかな、と。

怖くないお人形は、そのお人形(と作家さんの意図)が持つ「物語性の表れ」と、私のなけなしの「人形の物語性を理解する能力」が、うまいこと相性のよいお人形だったんだなぁ、と。

はあ、なんとまあ、そういうことだったのか。

今回人形の家に訪れなければ、思い至らなかった自分の新しい側面でした。
いやはや、よい機会でございました。
それもこれも、「人形の家に行ってみよう」と思わせてもらえるほどの田中さんと千代田さんの作品に出会えたからです。
素晴らしい作品を本当にありがとうございました。



今回のエッセイのタイトルにした『「人形を愛でる」ということ』。

昔、「女子妄想症候群」という漫画を読んだときに、作者のイチハ先生が単行本のあとがきで球体関節人形について描かれていたことがあって、
ぼんやりとした記憶で申し訳ないのですが、
『人形も、漫画も、「ヒトガタを愛でる」ことを通して、人間は何を見つめるのか』
というような内容のことを描かれていたのを覚えていまして。

「人間を愛でる」のにはいろんな方法があって、「人形」もそのひとつなんだよなぁ、と。
人形にこめられた意図は様々であれ、どの作家さんも「人間とは」「命とは」「存在とは」ということを見つめながら作品を作り上げているんですよね。
そして、そんな愛情や想いの結晶なら、人形を必要以上に怖く感じる必要はないんだろうな、と思うことができました。

今回の一連の出来事…田中さんのお写真と千代田さんのお人形に出会い、いろんなお人形を見て自分の反応に気付き、幼少期の恐怖心を少しやわらげることができて、
まさしく「ヒトガタを愛でることを通じて自分という人間を見つめる」体験となりました。
とてもとてもよい体験でした。

それではまた次回のエッセイで。